量子化学とは、量子力学の法則を使って分子や原子のふるまいを計算する学問です。私たちが学校で習う化学は、電子が原子核の周りを決まった軌道で回るという単純なモデルで説明されますが、実際の分子はもっと複雑で、電子の位置やエネルギーを正確に知るには量子力学の計算が必要になります。量子コンピュータは、このような量子化学の計算を高速に行える可能性があるため、新しい材料や薬の開発などで大きな期待を集めています。
量子化学の計算では、分子の中の電子がどのように分布しているかを求めます。しかし、電子の数が増えると計算量が爆発的に増えてしまうため、従来のスーパーコンピュータでも正確に解くことが難しくなります。量子コンピュータは、電子そのものが量子力学的な性質を持つことを利用して、この難しい計算を効率的に実行できると考えられています。具体的には、分子のエネルギーを計算する「量子位相推定」や、電子の相互作用を模倣する「量子シミュレーション」といった手法が研究されています。
量子化学が重要な理由は、私たちの生活に欠かせない技術の多くが分子レベルの理解に依存しているからです。例えば、より効率的な太陽電池や軽くて強い素材、副作用の少ない医薬品を開発するには、分子の性質を正確に予測する必要があります。量子コンピュータが実用化されれば、これらの開発期間が大幅に短縮され、これまで不可能だった新しい物質を設計できるようになると期待されています。特に、触媒反応の仕組みを解明することで、化学工業のエネルギー消費を減らすことも可能になるでしょう。
最近では、量子化学の分野でさまざまな進展が見られています。PsiQuantumとBoehringer Ingelheimは、医薬品および農業向けの分子計算について、将来の誤り耐性量子コンピュータ上で最大278倍(FeMoco)の高速化が見込める計算手法を示しました。QunaSysはコペンハーゲン大学などと共同で、テンソル超縮約を活用するHyperTenQプロジェクトに対し、デンマーク・イノベーション基金から1900万デンマーククローネの助成金を獲得しています。また、大阪大学とフィックスターズは、1,024基のGPUを使い、従来困難だった40量子ビットを超える42量子ビットの量子化学シミュレーションに成功しました。さらに、QC WareとIonQは、創薬に重要な酵素活性部位の静電相互作用エネルギーの計算で、古典計算の基準値との差を0.5 kcal/mol以内に抑え、化学的精度の目安である1 kcal/molを下回る結果しています。QedmaとHQC²は、IBMの量子プロセッサ上で誤り緩和ソフトウェアQESEMを用いることで、水分子のエネルギー推定誤差を30倍から50倍削減できることを実証しました。
身近な例えでいうと、量子化学は「分子の設計図を読むための顕微鏡」のようなものです。普通の顕微鏡では見えない電子の動きを、量子コンピュータという特別な道具を使って可視化するイメージです。よくある誤解として、量子化学は量子コンピュータ専用の分野だと思われることがありますが、実際には従来のコンピュータでも近似計算は行われており、量子コンピュータはその精度を飛躍的に高める手段として位置づけられています。関連する用語としては、分子軌道法、密度汎関数理論、量子シミュレーションなどがあり、これらはすべて量子化学の基礎となる概念です。




