シリコンスピン方式の量子コンピュータは、パソコンやスマホの中にあるのと同じシリコンでできています。そう聞くと、意外に思う人もいるかもしれません。量子ビットというと、金色の装置や特殊な真空チェンバーを思い浮かべやすいからです。ですが実は、この方式こそ「いつも使っているシリコン」を土台にしています。
仕組みはこうです。シリコンの中にある電子は、スピンという性質を持っています。これは電子が持つ小さな磁石のような性質で、上向きか下向きかという状態を取ります。この上向き・下向きを0と1に対応させ、量子ビットとして使います。量子の世界では、観測するまで上向きと下向きが同時に重なった状態を作れます。この重ね合わせが、量子コンピュータの計算力の源になります。電子1個の向きを、電極で作った電場や磁場を使って操り、狙った状態に持っていくことで計算を進めます。
この方式の強みは、既存の半導体製造技術がそのまま使える点です。すでに確立されたシリコンチップの作り方を応用できるので、将来の量産や小型化に向いていると期待されています。実際にDiraqとimecは、商用の300mm SiMOSファウンドリラインを使って実証実験を行いました。その結果、8量子ビットの動作が確認されています。2量子ビットから8量子ビットへ増やしても、性能の系統的な劣化は見られなかったと報告されています。Hahn-Echoコヒーレンス時間は最大1.31±0.04msに達したとされています。これは量子状態がどれだけ保たれるかを表す指標の一つです。電子スピンが比較的安定して長く保たれるという特徴を裏づける数字といえます。
一方で、弱みもあります。天然のシリコンには、シリコン29という同位体が約4.7%混ざっています。このシリコン29は核スピン、つまり原子核が持つ小さな磁石のような性質を持っています。この性質が、量子ビットの状態を乱してしまうのです。これを避けるには、核スピンを持たないシリコン28を高い純度まで濃縮する必要があります。量子コンピュータ向けには99.995%という濃縮度が求められます。これは半導体向けの99%とは水準がまるで違います。材料の側でここまで純度を上げる作業自体が、この方式の難しさの一つになっています。
いまどこまで来ているのかを見ると、二つの進み方があります。一つは量子ビット数を増やす方向です。先ほど触れたDiraqとimecの実証が、この方向にあたります。もう一つは装置全体を小さくまとめる方向です。Equal1は6量子ビットのシリコンベース量子サーバー「Bell-1」を発表しました。単一量子ビットゲート忠実度は99.40%です。CZゲート忠実度は98.40%、読み出し忠実度は99.9%以上という数値も公開しています。消費電力は高性能GPUサーバーと同等の1600Wです。0.3ケルビンという低温を、自己完結型の冷却装置で保っています。さらに、GlobalFoundriesの22FDXという商用プロセスを使いました。この製法で29個のNMOS・PMOS量子セルを集積しました。これを70mKから1.2Kで安定動作させたことも示されています。
材料の面では、ASP Isotopesがシリコン28の濃縮施設を再稼働させました。2026年5月には最初の18段を動かしています。同社は米国の顧客と濃縮シリコン28の商用契約を3件結んでいます。初回の商用出荷は2026年第3四半期に見込むとしています。ただし2026年後半に目指すのは、まず濃縮度99%の出荷です。量子コンピュータ向けの99.995%は、その先の段階になります。契約先の企業名や金額は公表されていません。また、99.995%での量産が実機で確かめられたという発表もまだ出ていません。
取り組んでいる企業・機関を整理しておきます。量子ビット単体の性能を積み上げているのがDiraqとimecです。ラックに収まるシステムを作っているのがEqual1です。材料側からシリコン28を供給するASP Isotopesも、この取り組みに加わっています。さらに半導体側からの動きもあります。GlobalFoundriesがQuantum Technology Solutionsという部門を新設しました。シリコンスピンを含む複数の方式に向けて、標準化された製造ラインを設計する組織です。それぞれの動きは個別の記事で扱っています。装置としてどこまで小さくまとまったかはEqual1のラック搭載型量子コンピュータの1年半にあります。材料側の進み方はASP Isotopesのシリコン28濃縮施設の再稼働をご覧ください。他の方式と並べた勢いの比較は7方式の勢いを4つの指標で数え直す記事をご覧ください。いずれからも、この方式が半導体産業と地続きであることが見えてきます。
一言でまとめると、シリコンスピン方式は「使い慣れたシリコンで、電子の向きを量子ビットにする」方式です。次回は、また別の方式に目を向けます。

