デコヒーレンスとは、量子コンピュータの計算中に、量子ビットが持つ「重ね合わせ」の状態が、周りの環境との相互作用によって壊れてしまう現象のことです。量子ビットは0と1を同時に表せる特殊な状態を利用しますが、この状態は非常にデリケートで、少しの振動や温度変化、電磁波などのノイズによって簡単に乱れてしまいます。デコヒーレンスは、その乱れによって量子ビットが重ね合わせ特有の性質(干渉)を失い、0か1かが確率でしか決まらない古典的な状態に近づいてしまうことを指します。測定のように結果が一つに確定するわけではありません。
仕組みとしては、量子ビットは孤立していれば重ね合わせを保てますが、現実には量子ビットは周囲の原子や電子、光などと常に微小な相互作用を起こしています。この相互作用によって量子ビットの情報が環境に漏れ出し、量子ビット同士の「もつれ」も解けてしまいます。たとえば、量子ビットの位相(波の山と谷の位置)が少しずつずれていくことで、計算に必要な量子状態の正確な重ね合わせが失われます。量子状態を保っていられる時間の目安を「コヒーレンス時間」と呼びます。代表的な指標が二つあり、T1(エネルギー緩和時間)は励起した状態がエネルギーを失って基底状態に落ちるまでの時間、T2(位相緩和時間)は重ね合わせの位相がそろっている時間です。コヒーレンス時間が長いほど、量子計算を安定して続けられます。
なぜデコヒーレンスが重要かというと、これが量子コンピュータの実用化を妨げる最大の壁の一つだからです。計算が進むにつれてデコヒーレンスが起こると、結果に誤りが生じ、正しい答えを得られません。そのため、量子誤り訂正やフォールトトレラント(故障耐性)技術が必要になります。また、量子コンピュータの各実現方式(超伝導、イオントラップ、シリコンスピンなど)では、コヒーレンス時間を延ばすための材料改良や冷却技術の向上が競われています。デコヒーレンスの起こりにくさを表すコヒーレンス時間は、量子ビットの性能を評価する指標の一つであり、量子コンピュータの性能向上に直結するテーマです。
最近の動きとしては、コヒーレンス時間を延ばしたりそろえたりする研究と、デコヒーレンスによる誤りを訂正で抑える研究が並行して進んでいます。10月には、フェルミ国立加速器研究所のSQMSセンターなどが、超伝導量子ビットの表面酸化物の厚さが1ナノメートル単位で違うだけでT1が最大2倍ばらつくことを突き止めました(SQMS、トランスモンの性能ばらつきの原因を特定)。SAXON Qは、常温で動くダイヤモンドのNV中心の装置で、核スピン量子ビットのT2が1.4〜4.3ミリ秒あると報告しています(SAXON Qの常温3量子ビットGrover探索)。誤り訂正の側では、9月にInfleqtionが中性原子の装置で80個の物理量子ビットに30個の論理量子ビットを符号化してもつれさせ(Infleqtion、30個の論理量子ビットを実証)、Google Quantum AIは誤り訂正のあとに残る論理エラーを後処理で3桁以上減らす「仮想誤差キャンセル」を数値シミュレーションで示しました(Google、仮想誤差キャンセルを発表)。
身近な例えで言えば、デコヒーレンスは「消えていく波紋」のようなものです。池に石を投げると波紋が広がりますが、時間が経つと波が静まり、形が崩れていきます。量子ビットも同様に、周囲の環境の影響で重ね合わせが徐々に崩れていきます。よくある誤解は、デコヒーレンスは量子コンピュータの故障や設計ミスだと思われることですが、これは量子ビットが環境と関わる限り起こる自然な現象で、完全に避けることはできません。そのため、遅らせる工夫と訂正する技術の両方が研究されています。関連する用語としては、「コヒーレンス時間」「量子誤り訂正」「重ね合わせ」「もつれ」などがあります。デコヒーレンスを理解することは、量子コンピュータがなぜ難しいのかを理解する第一歩です。
